2010年3月21日日曜日

シンディ・ローパー ニューアルバム最新情報 アレン・トゥーサン チャーリー・マッスル・ホワイト アン・ピーブルズ

シンディの Twitterより、6月にリリース予定のニューアルバムについての詳細情報を伝えた。

"今度のアルバムは、メンフィスでレコーディングしたの。
それは、夢のような一時だった。
アラントゥーサン、チャーリーマッスルホワイトが此処にいる。
私は、この人たちを信じています。"


“サポートするすべての人に、ありがとう...
私は、まだメンフィスにいるの。
今夜、あのアン・ピーブルズが私と一緒に歌ってくれるのよ。
信じられない!!
嬉しくて、涙が止まらないの。”

CyndiLauperShineより転載


アラン・トゥーサン
(Allen Toussaint, 1938年1月14日 - )は、
米国ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれの
ピアニスト、歌手、ソングライター、プロデューサー。
自らの演奏活動の他に、特に1960年代から70年代にかけて
数多くのアーティストのプロデュース、作曲、編曲を手がけ
ニューオーリンズのR&Bシーンを影から支えてきた。
彼が関わったアーティストは、アーマ・トーマス、
リー・ドーシー、アーニー・ケイドー、ミーターズ、ラベル
ポール・サイモン、ザ・バンドなど、広範囲に渡る。
来歴
7歳のときにピアノを弾き始め、1952年フラミンゴスを結成。
このバンドにはギターにスヌークス・イーグリンが在籍していた。
1955年、デイヴ・バーソロミューの目に留まり
ファッツ・ドミノ、スマイリー・ルイスらのセッションに
参加するようになる。
これを機に、セッション・ピアニストとして名を上げていった。
そして1958年のリー・アレンのヒット"Walkin' With Mr. Lee"の
アレンジを担当してからは、編曲者としても評価を受けるようになる。
同年、初のソロ作「The Wild Sound of New Orleans」も発表している。

1960年、トゥーサンは
ミニット・レーベルにディレクターとして迎え入れられ
彼のプロデュース
作曲による数多くのヒット曲が世に送り出されるようになった。
その中にはジェシー・ヒルの"Ooh Poo Pah Doo"
ベニー・スペルマンの"Fortune Teller"
(ローリング・ストーンズのカバーでも有名)
アーマ・トーマスの"It's Raining"などがある。
当時彼は、自分の母親の旧姓である"Naomi Neville"の
ペンネームで曲を書いていた。
60年代トゥーサンは、インスタント、フューリーなどの
レーベルでも同様の活躍をし、ニューオーリンズのシーンに
大きな足跡を残した。
また1965年にはマーシャル・シホーンとサンス・レーベルを興している。

60年代は自らの作品よりも
他のアーティストのプロデューサーとして活躍したトゥーサンだが
70年代になると「From a Whisper to a Scream」(1970年)を始めとして
自己名義のアルバムを複数リリースした。
「Southern Nights」(1975年)は彼の代表作と言われている。
また70年代には
マーシャル・シホーンと共同でシーセイント・スタジオを開設した。
他にも、ドクター・ジョンの「In The Right Place」(1973年)や
アルバート・キングの「New Orleans Heat」(1978年)を
プロデュースしたり、ウイングスの「Venus And Mars」(1975年)に
ピアノで参加する等、幅広く活躍。

80年代以降は、目立った活動は少ないが
1996年にはナイノ(Nyno)レーベルを設立。
(レーベル名はニューヨークとニューオーリンズの頭文字を取ったものである)
同レーベルからは自身のアルバム「Connected」(1996年)をはじめ
オリバー・モーガン、レイモンド・マイルズなど
ニューオーリンズのアーティストたちがアルバムをリリースしている。
(但し、2007年現在、同レーベルは休眠状態である。)
また、1998年には、ロックンロールの殿堂入りを果たしている。

2005年、ハリケーン・カトリーナで被災し
ニューオーリンズ市内の彼の家もシーセイント・スタジオも
全壊してしまった。
彼は以後ニューヨークに拠点を構えていたが
2009年現在、ニューオーリンズに戻っていている。
カトリーナ以降、数々のカトリーナ関連のベネフィット・コンサート
CDなどに参加するようになった。
またエルヴィス・コステロとの共作
「The River In Reverse」(2006年)をリリース
中島美嘉のシングル"All Hands Together"にも参加するなど存在感を高めている。
2006年5月には、プロモーションのため久々に来日
東京のクラブでソロ・コンサートも行った。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載



チャーリー・マッスルホワイト
(Charlie Musselwhite 1944年1月31日 - ) は
アメリカ合衆国のブルース・ハーモニカ奏者、歌手。
白人でありながら
若い頃からメンフィス、シカゴで黒人のブルース・ミュージシャンと
共演を重ね1960年代に頭角を現した。


1944年1月31日、ミシシッピ州コジウスコに生まれる。
3歳の頃、家族とともにメンフィスに移り住みんだ。

13歳のとき、ハーモニカをプレイするようになり
ウィル・シェイド、ファーリー・ルイスなどメンフィスの
ブルース・シーンで活躍するミュージシャンと共演するようになった。

18歳になると、マッスルホワイトは職を求めてシカゴに移住した。
シカゴの地では、テレサズ・ラウンジ、ペッパーズ、ターナーズといった
サウスサイドのクラブに出入りするようになり
リトル・ウォルター、ロバート・ナイトホーク
サニー・ボーイ・ウィリアムソンII、キャリー・ベルなど
多くのミュージシャンと共演を重ねている。

1965年、ヴァンガード・レコードの
コンピレーションChicago/The Blues/Today!の
レコーディングにビッグ・ウォルター・ホートンの
バンドのメンバーとして参加した。
1967年には、ハーヴィー・マンデル、フレッド・ビロウらが参加した
初のリーダー作
Stand Back! Here Comes Charley Musselwhite's South Side Bandを
ヴァンガードよりリリースしている。

デビュー作がサンフランシスコの
アンダーグラウンド・ラジオで人気を博したことを受けて
マッスルホワイトはフィルモア劇場に出演するなど
サンフランシスコ周辺のベイエリアに活動の拠点を移した。

以後、アルコール中毒の問題を抱えていたこともあり
大々的なツアーは行わず
ブルー・ホライゾン、クリスタルクリアといった
主に小レーベルから作品のリリースを続けた。
1984年にブルー・ロケットからリリースした
Tell Me Where Have All the Good Times Gone?では
ギターにロベン・フォードを全面フィーチャーした。
同作では、前年に他界したマディ・ウォーターズを悼んだ
"Seemed Like the Whole World Was Crying"で
泣きのハープを披露するなど、マッスルホワイトの力量を示した
快作となっている。

1990年にアリゲーター・レコードからの1作目
Ace of Harpsをリリースした頃より
大々的なツアーを行うなど露出が増えるようになった。
1997年には大手ヴァージン・レコードよりRough Newsをリリース。
続いて同レーベルからリリースされたContinental Drifter(1999年)では
大胆にラテンの要素を取り入れる試みを披露している。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載



アン・ピーブルズ
(Ann Peebles, 1947年4月27日 - )は
アメリカ合衆国の女性歌手。
ブルージーなナンバーを得意とする、ディープ/サザン・ソウル・シンガー。
ミズーリ州セントルイス生まれ。

8歳から父親ペリー・ピーブルスの聖歌隊でゴスペルを歌っていた。
その後、オリヴァー・セインやビッグ・ラッキー・カーターなど
ブルース系の人と関わりがあったとインタビューに答えている。

21歳の時、ウィリー・ミッチェルのオーディションを受け
メンフィスのハイ・レコードと専属契約。1969年にレコード・デビュー。

1973年のヒット曲"I Can't Stand The Rain"は
アンの代表曲として知られ
ハンブル・パイ、ロン・ウッド、ティナ・ターナー等がカバーした。

同じハイ・レコードのシンガー兼ライターのドン・ブライアンとは夫婦。

1979年のアルバムを最後に突然引退してしまったが
復帰後の1988年に発売された
アルバム「Call Me」収録の"Didn't We Do It"は
素晴らしいバラードとなっている。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載


6月にリリース予定のニューアルバム
順調に仕上がっているみたいですね。
今回は、ブルースアルバムと言う事で
非常に楽しみですね。
待ちきれない人の為に
この映像で、イメージして下さい。

"The Big Apple To The Big Easy - The Concert For New Orleans"
2006年・ビッグアップル ビッグイージーにて シンディとアレントゥーサン
"Last Train/I Know"





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