Cyndi Lauper: "She's Not Me - She's A Copy Machine"
シンディ・ローパー
Cyndi Lauper、本名:Cynthia Ann Stephanie Lauper
(シンシア・アン・ステファニー・ローパー)1953年6月22日 - ) は
アメリカ合衆国の歌手、女優。歌手としてグラミー賞、俳優として
エミー賞の受賞経験のある、1980年代を代表するポップス歌手である。
幼少期 - 1980年
1953年6月22日
ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン地区クイーンズ区において
ユダヤ系の血を引くスイスおよびドイツ系アメリカ人(
ドイツ系ユダヤ人)の父と、シチリア系アメリカ人の母との間に生まれる。
5歳の時、両親が離婚。母親、姉、弟と共にクィーンズ近郊の
オゾン・パークへ移住。
12歳の時に、ギターの弾き方を学び、作詞を始める。
学校では周りになじめず、授業を受けるかわりに、絵を描いたり
歌を歌ったりして過ごす。17歳の時、自分のおかれている環境に嫌気がさし
高校を退学しついに愛犬スパークルと共に家をでる。
(後の1968年、転校を繰り返した4校の高校のうち
ニューヨーク州リッチモンドにあるリッチモンド高校より名誉卒業生として
認められることになり、卒業式にも出席した。)
その間、生活のためウェイトレス、絵のモデル、競馬調教師の助手
空手教室の呼びこみ等様々な職につきながら、アートスクールに通ったり
トロント北部にある森でテントを張り、スケッチをしながら過ごした。
カナダを旅行した後、ニューヨークに戻る。
ロングアイランド出身のバンドDoc Westに加入し
バックグラウンドシンガーとして活動するが
後に別のバンドFlyerに加入しリード・シンガーとして働く。
1977年
歌い続けることによって喉を酷使してしまい声帯に損傷を受けたために
声が出なくなり、1年間音楽活動を休止し、ヴォイス・トレーナー
ケイティ・アゲストラの指導のもと、集中的なヴォーカルトレーニングを受けて
歌声を取り戻す。
1978年
キーボード兼サックス・プレイヤーのジョン・テュリと知り合い、意気投合し
自身のバンドBlue Angelを結成する。
1980年
ポリドール・レコードより、アルバム『Blue Angel』でデビュー。
多くの評論家に絶賛されたにもかかわらず、ロカビリーサウンドが理解されなかったり
商業的成功を収められず、バンドはその後すぐに解散。彼女は自己破産を申請し
小売店で働き始め、生活のためにまた歌い始める。
1983 - 1989年
ブルーエンジェル解散後
活動を続けていた頃にマネージメントを手がけていたデビッド・ウルフと知り合い
(その後ウルフはローパーの恋人兼マネージャーとなる)
ウルフの紹介を経て、ポートレート・レコードと契約を結ぶ。
ポートレートレーベルのエクゼクティブ・プロデューサー、レニー・ペッツや
プロデューサーのリック・チャートフ後にザ・フーターズを結成する
ロブ・ハイマンの全面的な協力によって制作されたアルバムで1983年に
『シーズ・ソー・アンユージュアル/She's So Unusual』でソロ・デビュー。
1984年
ファースト・シングルの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」が
ヒット・チャートに急上昇して第2位に輝き、セカンドシングルの
「タイム・アフター・タイム」は全米第1位になり
サードシングルの「シー・バップ」は第3位、「オール・スルー・ザ・ナイト」が
第5位とデビューアルバムから4曲連続トップ5入りした
初の女性ソロ・アーティストとなった。
第1回MTVミュージック・ビデオ・アワードで最優秀女性歌手賞を受賞し
ローリング・ストーン誌の1984年度の最優秀新人賞など数々の賞を総なめに。
映画『グーニーズ』のオリジナル・サウンドトラックに参加し
シングル「グーニーズはグッド・イナフ」も全米第10位のヒットとなった。
プロモーションのために初来日、フジテレビ系「笑ってる場合ですよ!」に出演。
シングル「タイム・アフター・タイム」はマイルス・デイヴィスらにも
カヴァーされるスタンダードとなる。
1985年
5枚目のシングル「マネー・チェンジズ・エヴリシング」は全米第27位になり
第12回アメリカン・ミュージック・アワードでは
最優秀女性ポップ・ロック・ヴォーカル賞や
最優秀女性ポップ・ロック・ビデオ・アーティスト賞を
グラミー賞では最優秀新人賞と最優秀アルバム・パッケージ賞を受賞。
USAフォー・アフリカの『We Are The World』のレコーディングに参加。
とても印象深い熱唱を披露し、音楽監督のクインシー・ジョーンズに
「アドリブ入れてもいい?」と尋ね、彼を喜ばせたという有名なエピソードも残している。
デビューしてわずかな時間で80年代を代表するシンガーとなり
パワフルなヴォーカル、独自のファッション性も話題となった。
1986年、2枚目のオリジナル・アルバム『トゥルー・カラーズ/TRUE COLORS』を発表。
ファースト・シングル「トゥルー・カラーズ」は全米第1位を2週連続獲得し
セカンド・シングル「チェンジ・オブ・ハート」は第3位に
サード・シングルの「ホワッツ・ゴーイン・オン」は第12位に記録した。
1987年、映画『バイブス秘宝の謎』の撮影に入ってから
スランプに陥ってしまい、私生活ではマネージャーでもあり婚約者で
共に暮らしていたデヴィット・ウルフと別離。
1988年、旧ソ連で行われた『米ソ・ソングライター・サミット』に
参加したことが転機となり、様々な刺激を受けてスランプを
抜け出すきっかけとなり活力を取り戻し
ほとんど出来上がっていたニュー・アルバムを白紙に戻して作り直して
1989年、3枚目のオリジナル・アルバム
『ア・ナイト・トゥ・リメンバー/A NIGHT TO REMEMBER』を発表。
自身初の全曲ラヴ・ソングとなった。
ファーストシングル「涙のオール・ナイト・ドライヴ/ I DROVE ALL NIGHT」
は全米第6位を記録した
人物
アーティスト・歌手
デビュー当初は
古着の様な格好と後にハリウッドメイクと言われるメイクや
ハリウッドスマイルと呼ばれる上唇をめくり上げ四角く口をあけるユニークな笑顔などで
メディアを驚かせた。
様々な曲調を歌いこなすことから「七色の声を持つ歌手」と称される。
デビューから現在まで変わらないパワフルなアーティスト活動や
独自のファッションから「永遠のガール」と称されている。
内面
非常に思慮深く感受性が強い人柄で、一時期
急激に有名人になったことの戸惑いと
いつも注目を浴びることのプレッシャーから孤独感に苛まれ引きこもりがちになり
自身のパーティーでさえ、周りに人が集まれば集まるほど孤独を感じ
ホテルの部屋に閉じこもってしまい主役不在のことさえあったという。
親日家・日本との交流
親日家で知られる。日本にはたびたび御忍びで訪れ
日本国内を旅行している。
もっぱら移動手段は新幹線で、乗り込むとすぐにビールもしくは日本酒とスルメを買い込んで
一杯やりつつ車窓からの景色(特に富士山)を眺めるのが好きだとのことである。
来日公演で阪神タイガースの掛布雅之選手の縦じまのユニフォームを着たことがある。
オノ・ヨーコと親交がある 。
社会活動に熱心であり
日本の有名な戦争悲話「かわいそうなぞう」のCDの英語吹き込みを担当した。2008年8月13日発売。
「戦争は動物までも不幸にする」というメッセージを社会に向けて発信する。
デビュー前の下積み時代、ニューヨークの日本料理店でウェイトレスのアルバイトをしていた
日本語は「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」が初めて覚えた言葉である。
恩人との再会
1989年
日本の番組に出演した際にニューヨークの『ミホ』というジャパニーズレストランで
働いていたことがあったと話した。
いきさつは定職もなくブラブラしていた時にそのレストランを経営している鈴木サクエという
日本人女性と出会い、「それじゃ駄目だから自分の店で働きなさい」と誘ってもらったとのこと。
鈴木はシンディに限らず、シンディのバンド仲間やまだ活躍していない色んな
アーティスト達を助けていた。鈴木は常にシンディに
「いつか売れる日が来るから頑張りなさい」と激励をしていたという。
この鈴木との出会いがシンディを超親日家とも言えるほどの日本贔屓にさせる切っ掛けとなった。
番組では内緒で鈴木を探し出し、シンディの来日とは関係なくたまたま偶然に諸事情で
日本に帰ってきていた鈴木とシンディはスタジオで再会を果たした。
シンディは感激のあまり歌う前に涙ぐんでしまった。
ルーズソックス
1995年
『ニュースステーション』に出演した際に
当時社会現象となっていた女子高生の「ルーズソックス」のニュースにコメントを求められ
「あのソックスは格好いいし、いいじゃない?!」とスタッフの思惑と正反対のことを言い出し
「あの年頃の少女たちは、自分が何か特別の存在でありたいと願い
同時に一人で突出する勇気はまだない。
そんな少女たちが社会においては特別な自分たちであるという主張としての
ルーズソックスなのではないだろうか」と続け、コメントの最後に
「でも誰が何と言おうとあのソックスは格好いい!」と結んだ。
マドンナ
Madonna 本名:Madonna Louise Veronica Ciccone
(マドンナ・ルイーズ・チッコーネ)1958年8月16日-)は
アメリカ合衆国ミシガン州出身のシンガーソングライター
女優、映画監督、文筆家、実業家。
2008年には、ロックの殿堂入りを果たしている。
人物
80年代初頭のニューヨークのダンスクラブ・シーンに登場し
1984年の大ヒット曲「ライク・ア・ヴァージン」を機に
ポピュラー音楽のチャートで成功を収め
その大胆で挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターになる。
アルバムの代表作に『トゥルー・ブルー』、『ライク・ア・プレイヤー』
『レイ・オブ・ライト』などがあり、シングルの代表作に
「ホリディ」、「クレージー・フォー・ユー」、「ヴォーグ」
「ミュージック」、「ハング・アップ」など多数がある。
MTVの登場により人気を得たミュージック・ビデオを
巧みに活用しながらポップアートと音楽を融合し
日本では「マドンナ旋風」とも呼ばれた現象的な成功を収める。
セックス・シンボルとして不動の位置を固めるが
その後多様なイメージの変遷を繰り返し現在に至る。
彼女の活動は音楽にだけに止まらず
レコード会社の設立、映画や舞台への出演
そして近年では児童書の執筆や映画監督なども行っている。
2000年の『ギネスブック』では「史上最も成功した女性アーテイスト」
とも記録された。
来歴
1958年8月16日
母の実家のあるアメリカ合衆国ミシガン州ベイシティ(Bay City)
マーシー病院で、8人兄妹の3番目に出生。
1987年ごろまで1961年生まれということにしていたが
1989年発売のCD『ライク・ア・プレイヤー』のライナーには
1958年生まれとはっきり記載があるため
この頃までに元に戻したと思われる。
ちなみに同い年で知られるマイケル・ジャクソンとプリンスも同じく
61年生まれと3才偽っていた時期がありこの点でも共通している。
父はイタリア人のシルビオ・チッコーネ
母はフランス人のマドンナ・ルイーズ・チッコーネ。
幼少期を、同州ポンティアック市(Pontiac)で過ごし
後に家族が増えたため、同州ローチェスターヒル市
(Rochester Hills)へ転居した。
父は、GMのデザインエンジニア。実母はマドンナが6歳の時乳癌で逝去し
父はほどなく再婚した。母の死や後の父・継母との確執は
彼女の精神性に大きな影響を及ぼし
「Promise To Try」「Oh Father オー・ファーザー」などの
楽曲で歌われている。弟や妹の面倒もよく見ていた。
そんな中でも、多くの習い事を幼い頃からしており
最初はピアノを習っていたが、父親に「バレエを習いたい」と懇願し
変えてもらう。その後、モダンダンス、ジャズダンスなど
ダンスを多く習い始める。
1977年
35ドルを手にグレイハウンドの長距離バスで
郷里を後にニューヨークへ出発した。
ニューヨーク到着後、タクシーの運転手に
「この街で一番大きな場所へ行って!」と言い
タイムズスクウェアで降りたマドンナはゆっくり天を仰ぎ
「私はこの世界で神よりも有名になる」と誓った。
なおベジタリアンとなったのもNY移住後である。
1978年
ニューヨークで、『パトリック・エルナンデス・レビュー』に
ダンサーとして出演。他にも数々の職に就く。
この頃出演していた成人映画が有名になってからビデオで発売された。
1985年8月16日
俳優のショーン・ペンと結婚したが、1989年に離婚。
2000年12月22日
スコットランドのドーノック大聖堂にて
映画監督のガイ・リッチーと結婚したが
2008年10月15日にマドンナの広報リズ・ローゼンバーグが
夫婦の離婚を正式に発表した。
以上、ウィキペディアより
抜粋し転載。
シンディの記録を駆け足で読みました。
返信削除彼女の映像を集めていた頃を思い出しました。
あらためて彼女の足あとをたどり、感動しています。
コメント有難う御座います。
返信削除お久しぶりです。
コメント読んで直ぐに誰か分かりましたよ。
その後、ちゃんと歩いていますか?
京都の・・・さん。
マドンナの事を、どう感じているのでしょうか?
そういえば、京都の・・・さんの
マドンナに対しての分析を急にお聞きしたくなりました。