フィル・スぺクターとジーン・ピットニー
“He's A Rebel”
この曲は、ジーン・ピットニーが
(
http://cyndilauperbringyatothebrink.blogspot.com/2010/02/im-gonna-be-strong.html参照)
1962年に名プロデューサー
フィル・スペクターがプロデュースしていたガール・グループのクリスタルズに提供し全米No.1となる。
しかし、調べていくうちに、色々な事が分かってきた。
“He's A Rebel”
この曲はジーン・ピットニー自身も唄い、“She's a Rebel”として発表している。
フィレスレコード設立前のフィル・スペクターがジーン・ピットニーをプロデュースしたことがあると聞くと
「そんなビッグなアーティストをプロデュースしたのか」と驚いてしまいますが
スペクターがピットニーの「Every Breath I Take」をプロデュースしたのは
ピットニーがスターになるよりも前の話です。
1950年代末期から60年代初頭にかけてのアメリカの音楽界では
歌手になりたいと願う人がまず作曲家として音楽業界に食い込むという例がよく見られます。
ピットニーも、音楽出版社に売り込んだ「Hello Mary Lou」が
1961年にリッキー・ネルソンによって取り上げられ
見事全米No.1ヒットになったことによって、音楽業界での足場を作りました。
そして歌手としてデビューする機会を得たピットニーは、自作の「Love My Life Away」で全米39位という
まずまずのヒットを果たします。続く2作目のシングルがキャロル・キング&ジェリー・ゴフィン作の
「Every Breath I Take」です。フィル・スペクターがプロデュースしたこのシングルは
ジーン・ピットニーの声の特質をうまく活かした魅力的な作品ですが
全米42位までしか上がらなかった為、ピットニーとスペクターの関係はこれ1作で終了します。
しかし、翌1962年にピットニーは作曲家としてスペクターに「He's A Rebel」を提供しています。
スペクターはクリスタルズでこの曲をレコーディングし、見事全米1位に輝きました。
West Coast Rock様より記事抜粋
とあるが、実は・・・・?
ダーレン・ラヴ / The Blossoms
ブラッサムズは1954年にロサンゼルスのフレモント高校の生徒たちによって結成されました。
当時はドリーマーズというグループ名でした。
メンバーはファニタ・ジェイムズ、アネット・ウィリアムズ
ナネット・ウィリアムズ、グロリア・ジョーンズの4人で
ダーレン・ラヴは結成時のメンバーではありません。
1955年にリチャード・ベリーというR&Bシンガーの
バックアップ・コーラスとしてデビューした彼女たちは
翌56年にはドリーマーズ単独でのレコード・デビューも果たしています。
これらのシングルは成功を収めませんでしたが、ドリーマーズは
バックアップ・コーラスと自身のレコーディングを並行して行い
ロサンゼルスの音楽界で着々とその地位を固めて行きます。
1957年には大手のキャピトルと契約を交わし
この時にブラッサムズと改名しています。
キャピトル時代にも商業的成功を勝ち得ることはできませんでしたが
1958年にはダーレン・ラヴがリード・ヴォーカリストとして加入
追ってウィリアムズ姉妹が脱退し、3人組のラインアップとなるという大きな変化が訪れます。
1961年には初めてのヒット曲である「Son-In-Law」を
インディー・レーベルのチャレンジから発表します。
その後のシングルは再びパッとしなくなりますが
バックアップ・コーラス・グループとしては
サム・クックやデュアン・エディなどの有名アーティストの
バッキングを担当するようになり、業界内では彼女たちは有名になっていました。
1962年
フィル・スペクターはクリスタルズの次のシングルとしてピッタリの
“He's A Rebel”という楽曲と出会います。
(作曲は彼がかつてプロデュースしたことがあるジーン・ピットニー)
しかし、この時のスペクターはロサンゼルスに拠点を移したばかりで
クリスタルズの面々はまだニューヨークにいました。
思い立ったらすぐにレコーディングしたいタイプのスペクターは
代わりのヴォーカル・グループにクリスタルズ名義で歌わせることを考えます。
この為にレスター・シルがスペクターに推薦したのがブラッサムズでした。
こうしてブラッサムズが歌っているにもかかわらずクリスタル名義で発売された
“He's A Rebel”はフィレスレコードにとって初のNo.1ヒットに輝きました。
続いてスペクターはダーレン・ラヴとファニタ・ジェイムズを
男性シンガーのボビー・シーンと組ませ
ボブ・B・ソックス&ザ・ブルージーンズとして
「Zip-a-Dee Doo-Dah」「Why Do Lovers Break Each Other's Heart?」
「Not Too Young to Get Married」といったヒット曲を発表しています。
並行してブラッサムズはクリスタルズの代役としてのレコーディングも続け
「He's Sure the Boy I Love」と「Da Doo Ron Ron」を録音しています。
但し、スペクターが「Da Doo Ron Ron」の出来映えを気に入らなかった為に
最終的にリード・ヴォーカルはクリスタルズのララ・ブルックスのものに差し替えられています。
このように、なかなか自己名義での活動ができなかったダーレン・ラヴですが
63年4月にはようやくダーレン・ラヴ名義(ラヴという芸名はスペクターによる命名)の
「(Today I Met) the Boy I'm Going to Marry」が発表されました。
その後、ラヴ名義で更に3枚のシングルが発表されています。
彼女は『A Christmas Gift For You』でも、唯一のオリジナル曲である
「Christmas (Baby Come Home)」を歌うという重要な役柄を任されています。
しかし、1964年にはスペクターの興味がロネッツに移り
ブロッサムズはフィレスを離れることになります。
その後彼女たちはテレビ番組『Shindig !』に出演し、数枚のシングルも残した他
バックアップ・コーラス・グループとしても活動を続け
ボビー・ダーリンやポール・アンカをサポートしています。
ソロとなった彼女は、フィレスレコードとしては珍しく
本格的なR&Bシンガーとして活動し、「(Today I Met)The Boy I'm Gonna Marry」などの
ヒットを放った。しかしスペクターに便利屋的な使われ方をされていたのも事実で
ソロとして活動しつつもロネッツやライチェス・ブラザーズの
バック・コーラスをやらされたりした。
フィレスレコードから離れた後は、ミュージカルやセッションの仕事をこなしつつ現在に至っている。
最近では映画『リーサル・ウエポン』にも出演した。
West Coast Rock様より記事抜粋
The Crystals・クリスタルズ
フィル・スペクターはフィレス設立以前にも多くのアーティストをプロデュースし
ヒットを飛ばして来ましたが、それらのプロデュース・ワークはアーティストや
レーベルの依頼を受けて行われたものであり、アーティストとスペクターの関係は
1~2枚のシングルで終わることが殆どでした。
しかし、1961年にレスター・シルと共にフィレスを設立したことにより
スペクターに“自分のアーティスト”を持つ機会が訪れます。
そんな時期に彼の目に留まったのがバーバラ・アルストン、ララ・ブルックス
ディー・ディー・ケニブリュー、メアリー・トーマス、パトリシア・ライトの
女性5人からなるコーラス・グループでした。スペクターは彼女達に
クリスタルズという名前を付け、フィレス第1弾アーティストとして売り出します。
1961年9月に発表されたデビュー・シングル「There's No Other」は全米20位まで
上がるヒットとなり、クリスタルズは幸先の良いスタートを切ることができました
続く「Uptown」は全米13位とチャート上の成績を順調に伸ばしています。
1962年の「He Hit Me」あたりからクリスタルズとスペクターの関係は
おかしくなっていきます。キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン作の
この曲は恋人間でのドメスティック・ヴァイオレンスを肯定するような
過激な歌詞を持っており、クリスタルズの面々はこの曲を
レコーディングするのを嫌がったそうです。
スペクターの強要によって結局はレコーディングされたのですが
問題になることを恐れたラジオ曲がエアプレイを控えた為にヒットには至りませんでした。
この出来事がスペクターとクリスタルズの間に溝を生みました。
この時期にスペクターはブラッサムズのダーレン・ラヴに歌わせた
“He's A Rebel”と「He's Sure the Boy I Love」を
クリスタルズの名義で発売しています。
YOUTUBE
映像解説文に、こうあります。
このクリップは、少し残念です。
The Crystals を、He's A Rebelを唄っていません。
そして、この映像は ダーレン・ラヴ / The Blossomsの声に合わせて物まねをしています。
面白いことに“He's A Rebel”はクリスタルズにとって
初の全米1位に輝き、彼女達の最大のヒット曲となりました。
このヒットに気を良くしたのか
クリスタルズとスペクターの関係は一時的に好転し
1963年には正真正銘クリスタルズの面々が歌った「Da Doo Ron Ron」と
「Then He Kissed Me」をヒットさせています。
これらの曲はイギリスでも大ヒットした為、クリスタルズはイギリス公演を行い
スペクターも同行しています。この公演旅行の帰りにスペクターが
ビートルズと同じ飛行機に乗り、彼らをアメリカ人達に紹介したことはあまりにも有名です。
その後、スペクターがクリスタルズと同系統の
ガール・グループであるロネッツを見出し
そちらにより興味を示したことにより、彼とクリスタルズの関係は終焉を迎えます。
彼女達はクリスタルズという名前をスペクターから買い取ってフィレスを離れ
インペリアルに移籍します。しかし、さしたるヒットを残すこともなく
1966年に解散しています。尚、1970年代以降は断続的に再結成しており
オールディーズ・サーキットで活動している他、
ごくたまにレコーディングも行っているようです。
West Coast Rock様より記事抜粋
さて、ここからは私が。
Darlene Love and Cyndi Lauper sing He's a Rebel
“Women Who Rock”コンサート 14日
メイヴィス・ステイプルズとの後に
シンディはダーレン・ラヴのバックコーラスに回って
披露した曲が“He's A Rebel”。
私はこの曲に聞き覚えがあった。
1991年横浜アリーナ
それは、Girls Just Want To Have Funの
間に、シンディが歌っていた曲であった。
誰の歌か、どんな歌かも分からなかったが今の今まで
耳に付いて離れなかった曲である。
5:11から始まります。
そして、横浜と今回の事は非常に関わり合いがあると思うのは
I´m gonna be strongも披露している。
シンディは、ブルーエンジェル時代から現在まで
ジーン・ピットニーの曲
I´m gonna be strongを歌い続けている。
そして今日の締めは
やはりこの人で締め括りましょう。
"He's A Rebel" - Darlene Love