2012年10月27日土曜日

シンディ・ローパー 朝日新聞特集 "うたの旅人"より


朝日新聞特集 "うたの旅人"より

★「トゥルー・カラーズ」
「いつか必ず光が見える」



2011年3月11日
午後2時46分
米国在住の歌手
シンディ・ローパーさん(59)を
乗せた飛行機が、成田空港に
着陸しようとしていた。

4日後には、日本ツアー初日の名古屋公演が控えていた。
ところが
飛行機は着陸せず上昇。
横田基地
名古屋、大阪と行き先を変え
結局、羽田に降りた。
都内のホテルにたどり着いたのは
翌12日未明だった。

テレビは、地震、津波の甚大な
被害を報じていた。
さらに
この日、東京電力福島第一原発
1号機の建屋が水素爆発。
やがて放射能を恐れ、外国人が次々と出国し始めた。

しかし
シンディさんは
バンドのメンバーらを説得
ツアーを開始した。
記者が最初にシンディさんと
会ったのはその1週間後。
東京・渋谷のコンサートホールの
楽屋だ。
開演直前だというのに
シンディさんは自分自身に
言い聞かせるように
話してくれた。

「トンネルを進んでいけば
いつか必ず光が見える。
つらい経験をするほど
人間はそれを乗り越え
強くなる。
それを伝えたくて
日本に残ったの。
私は歌う。
歌うことで誰かを幸せにできると
信じている。
東北の人々が
元の暮らしに戻れる日が来るのを
願って歌う」

長いまつ毛の下の目には
涙がいっぱいたまっていた。
シンディさんはステージに
飛び出していった。
拍手の渦の中へ。

1年後の今年3月
シンディさんは再び日本ツアーに
臨んだ。
昨年も今年も
コンサートの最後に歌ったのは
「トゥルー・カラーズ」だった。
シンディさんに再会し
その理由を尋ねた。

「日本と私とのつながりを
語るのに、とても大切な曲なの」

米ニューヨーク市出身。
あの街を訪れると耳にする
早口でまくし立てるような
話し方だ。

「(トゥルー・カラーズは)
日本のファンがライブで一緒に
歌ってくれた、初めての曲だった。
あの時は本当に心が震えた。
私の伝えたいことが
言葉の壁をこえて
ちゃんと伝わってるんだと
感じたから」

実は、それ以前に
彼女が「伝わっていないのでは?」と疑念を抱く“事件”が
あった。
1983年のヒット曲
「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハブ・ファン(女の子だって遊びたい)」に絡む出来事だった。

「仕事の後は遊びたい」
「男に囲い込まれるより、堂々と
生きる女でいたい」。
そんな歌詞で自立した女性を
歌っていた。
それなのに
日本のレコード会社は
「ハイスクールはダンステリア」と
いう曲名で売った。

「私は怒って問いただした。
意味が全く違う。
あなたたちは日本の女性に
力を持って欲しくないの!」。
そして、次のトゥルー・カラーズに
ついても「変える気なの!」と
迫った。

すると、担当者は
「トゥルー・カラーズはそのままに
する」と約束したという。
譲れないメッセージが
トゥルー・カラーズにはあった。

「悪いことが起きるたび
曲に思いをぶつけて乗り越えて
きた。
こんなにつらかったんだから
後はいいことしかないと思って。
でもまた、乗り越えなければならないことが起きた。
それがトゥルー・カラーズを歌う
きっかけだった」
文・寺下真理加さん

★ 癒やしの歌
アウトサイダーの歌

古着屋を営む
ローラ・ウィルスさん。
シンディさんの
スタイリストとして何度も
来日したという=7月
ニューヨーク、金川雄策撮影


■心を通して見る「本当の色」

親友の青年が死んだ。
同性愛者だったのを理由に12歳で
家から追い出され
若くして病死した。
乗り越えなければならなかった。

「曲を作ってほしい」。
彼はよく、シンディさんに
そう話していた。
シンディさんは
ありったけの思いを詰め込んで「ブルーな少年」の歌を書き上げた。
しかし
「思いが強すぎて、他人に伝わる曲ではなくなってしまった」。

そんな時
ビリー・スタインバーグと
トム・ケリーの作った曲
「トゥルー・カラーズ」の話が
舞い込んできた。
詩にも旋律にも心奪われた。
アレンジャーにお願いした。
「『癒やしの歌』がいい。
シンプルで悲しくクリアな曲調の」と。
曲に命が吹き込まれた。
歌詞にこんな一節がある。
「人がひしめくこの世界で
自分を見失い、心の中の暗闇が
君をとても小さな存在に思わせる」。

シンディさんは言う。
「この曲は『アウトサイダー』の歌。それは亡くなった親友で
あり、私自身でもある」
 
シンディさんは、マンハッタンの郊外、クイーンズ地区で育った。
幼い頃に両親が離婚。
母親が働き
シンディさんを育てた。
何をするにも「変わり者」と
言われ、行く先々でいじめを
受けた。
自分の性格を恨んだこともあった。
それでも、ファッションも歌も
信念を曲げなかった。
髪を派手な色に染めたり
奇抜な色や柄の古着を重ね着したり
した。
1970年代半ばから
ニューヨークのライブハウスで
歌い始めた。
「ずっと孤独だった。
何かを表現していないと
苦しくて仕方なかった」
やがて、彼女の魅力を理解する
仲間が現れた。
古着店「スクリーミングミミ」の店長、ローラ・ウィルスさん
(59)もその一人だ。
ニューヨークのソーホー地区に
ある店を訪ねた。
赤い壁の店内には
毒のある可愛さを持った古着が
並ぶ。
シンディさんは
ここの常連客だった。
ローラさんは、ブレーク前の
シンディさんについて
「他人の視線、評価を気にしない。
恐れを知らない。誰のまねでもない
唯一無二の存在感を放っていた」と
話してくれた。

シンディさんは言う。
「今は『アウトサイダーで良かった』と思う。
“内側”にいる人々は、お金や見た目で
しか、物事の価値を判断しない。
真の美しさや価値
トゥルー・カラーズ(本当の色)は
心を通してしか見えない」。
人気に火がついた83年には30歳になっていた。
 
東日本大震災直後、都内で歌った
トゥルー・カラーズ。
ファンが「ライク・ア・レインボー」と声を合わせると、シンディさんは
呼びかけた。

「真の力のありかを忘れないで。
(胸を指さし)ここと、
(頭を指さし)ここ。
考え、語り、聞くために、私たちに
与えられた贈り物」
今年3月
日本ツアーの休養日に
シンディさんは宮城県石巻市の
市立大街道小学校を訪れ
桜の苗木を
子どもたちに手渡した。
周囲を津波に囲まれて孤立した
校舎の屋上に、コピー用紙を
並べて「SOS」と書かれた
大きな文字――そんな報道写真が
シンディさんの印象に残っていた。
大街道小学校だった。
あの日、この「SOS」に望みを
託し、児童や住民ら千人以上が救助を待っていた。
シンディさんは学校を訪れると
体育館の入り口でブーツを脱ぎ
保護者用のスリッパを履いた。
そこは半年前まで、家を失った住民が暮らす避難所だった。
「シンディ・ローパーが、アカペラで歌ってる。ありえない」。
保護者の
大石里華さん(37)は
児童らを前に歌うシンディさんを
見て、仰天した。
小学校時代に、映画の主題歌を歌う
彼女の声を聴いて以来、憧れの人
だった。
伸びのある美声とテクニック。
社会性と知性。
何より「前向きでパワフルな女性」の象徴と思っていた感覚が「生の歌声」を通して
よみがえってきた。
大石さんが携帯電話のカメラで
シンディさんを撮ろうとして
いると、シンディさんから近づいてきて、強く肩を抱き寄せてくれた。
この時のツーショットは
別の保護者のカメラに収まった。
大石さんは震災当日、夫と義父と
小学校に車で向かい、我が子2人を
乗せ、高台に逃げた。
振り返ると「さっきまであった街が
なかった」。
自動車整備工場と保険代理店を
兼ねる自宅は
津波で「洗濯機にかけられたように
ぐちゃぐちゃになった」。
住むことを禁じられ、親戚の家に身を寄せた。
夫はがれきを片づけ、大石さんは音信不通の顧客を探して回る日々が続いた。

そんな中
バットを持ってコンビニを襲う
目出し帽の男を目撃した。
留守にしている自宅では
夫が何者かと鉢合わせした。

「この世の終わり、という気分に
なった。音楽を聴く余裕はなかった」
今年9月、大石さんの運転で石巻を
案内してもらった。
シンディさんの歌が車内に流れていた。トゥルー・カラーズも。
「一番つらかった時期を思い出すけど、なぜか落ち着く曲。
肩をギュッとしてくれた。
あの温かさを忘れない」
曲の中で、シンディさんは
こう歌う。

「もしも君が耐えきれなくなったら
電話して。いつだって私がいるじゃ
ない」

シンディさんの贈った苗木は校庭に
植えられた。
塩害に負けず、花をつけた。
 
朝日新聞より

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