2010年3月29日月曜日
The Cyndi fans of each country Thank you.!!
United Kingdom
London
France
Paris
Brazil
Goiania
Belo Horizonte
Ponta Grossa
United States
Kentucky
Louisiana
Texas
Japan
浦添
東京
札幌
大阪
京都
長崎
Thank you, everyone.
By power of Cyndi, the world be peaceful!!
I cannot speak English.
I may let you cause misunderstanding, but please do not get angry at the harm because there is not it. I'm sorry.
2010年3月28日日曜日
I Feel Good シンディ・ローパー ジェームス・ブラウン
1988年に警察とのカーチェイスを行い
逮捕された時にジョージア州警察で撮影された写真
ジェームス・ブラウン
ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(
James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、
アメリカ合衆国の
ソウルミュージックシンガー・音楽プロデューサー・エンターテイナー。通称JB。
ファンクの帝王と呼ばれ、
The Hardest Working Man in Showbiz
(ショウビジネス界いちばんの働き者) The Godfather of Soul などとも称される。
歌手、ダンサー、そしてバンドのリーダーとして有名であり
1960年代から常にポピュラーミュージックに影響を与えつづけ
20世紀の最も重要な音楽家の1人に数えられる。
また、シャウトを用いた歌唱法が特徴である。
ジャズ音楽家のマイルズ・デイヴィスは
彼の影響を受けたと告白しており
R&Bが広まるにつれ、彼のリズムの使い方が
数多くの歌のインスピレーションになっており
その他ハウス (音楽)などダンス音楽全般において
彼とそのバンドのリズムパターンが使用、引用されている。
代表曲は「Get Up (I Feel Like Being A) Sex Machine」。
ブラウンのスタイルはマイケル・ジャクソンやプリンスにも影響をあたえている。
自身のバンドを J.B.'s と称しており
そのサックス奏者メイシオ・パーカー
ベーシストで、後にジョージ・クリントン率いる
Pファンク軍団にて活躍したブーツィー・コリンズとともに絶大な人気を誇っている。
ブラウンはその奇抜なファッションから
日本ではPファンクの創始者ジョージ・クリントンとともに
コミカル性が特に取り上げられることも多いが
その独自の黒人音楽としての芸術性は極めて高く評価されている。
彼の父はインディアン・アパッチ族で
母はアフリカン・アメリカンとアジア人の系統であり
彼は4分の1日系人および日本人の系統である。
ブラウンは個人的生活において何度かの有罪判決を受けている。
16歳で窃盗の罪で逮捕され3年服役した。
3番目の妻エイドリアン・ロドリゲスに対する暴力行為で
1980年代中頃と1990年代中頃に合わせて4度逮捕されている。
1988年にはジョージア州とサウスカロライナ州境で上述のとおり警察とのカーチェイスを行い
懲役6年の判決を受け2年間服役した。
また、無許可で拳銃を所持した上警官に暴行を加えたり
麻薬関係や交通違反などで幾度となく有罪判決を下された。
2004年1月28日に4番目の妻トミー・ライ・ヒニーへの暴行で逮捕された。
プリンスは、若年時ブラウンのファンで
音楽的に多大な影響を受けたが、ブラウンのコンサートでステージに上がって
踊り続け、警備員に引き降ろされている。
客席にいた
マイケル・ジャクソン
プリンスが
ステージに飛び入り参加した事がある。
先ずマイケルがステージに呼ばれ、彼独特の歌唱と踊りを披露し
観客から喝采を浴びる。そしてプリンスも同会場にいる事を知ったブラウンは
ステージからプリンスを呼ぶ。客席の奥からセキュリティに背負われながら登場したプリンスは、
J.B.'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来ず、さらに上半身裸になり
興奮状態のままフラフラとしながら寄りかかった照明器具を倒しつつ客席に戻る。
酩酊状態であったか、或いはある種の何かをやっていたのか、終始鼻を擦る姿が印象的であった。
幼いころのマイケル・ジャクソンは
ステージの端から彼の驚異的なステップの数々を見て学んだという。
今日の彼があるのもJBによるところが大きいと言える。
オーディエンスの沸かせ方もまたそうである。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載
少し前から、チョイ悪オヤジとかいうのが、流行っていたが
ジェームス・ブラウンを
何と言ったら良いのだろう。
凄悪ジジイがいいだろう。
本当に、世界は広い。
こんな、大物
日本に当てはまる人
居ないもの。
James Brown - I Got You (I Feel Good) 2005
そして、我らが
シン様もリスペクトして歌い上げます。
CINDY LAUPER - RADIO ZAPP
2010年3月22日月曜日
号外!! 又もや見つかる!!シンディ・ローパーブルーエンジェル時代の未発表曲"フライヤー"
ブルーエンジェルのメンバー
マーティ・ホーンのサイト内の別の未発表のブルーエンジェルデモを提供してくれました。
今回、発表された曲"フライヤー"。
この曲は、シンディ・ローパーとジョン・ツリーによって1979年に作られました。
しかし、リリースされる事はありませんでした。
マーティ・ホーン氏
ブルーエンジェル時代の音楽の歴史を、
この素晴らしい作品を共有して頂き有難う御座います。
Cyndi Lauper Newsより転載
イントロが「星に願いを(When You Wish upon a Star)」から始まる
シンディ・ローパーブルーエンジェル時代の未発表曲"フライヤー"
下記で、試聴できます。
http://cyndilaupernews.com/index.php?entry_id=1269205309&title=blue-angel-%22flyer%22-demo-hits-the-web
2010年3月21日日曜日
シンディ・ローパー ニューアルバム最新情報 アレン・トゥーサン チャーリー・マッスル・ホワイト アン・ピーブルズ
シンディの Twitterより、6月にリリース予定のニューアルバムについての詳細情報を伝えた。
"今度のアルバムは、メンフィスでレコーディングしたの。
それは、夢のような一時だった。
アラントゥーサン、チャーリーマッスルホワイトが此処にいる。
私は、この人たちを信じています。"
“サポートするすべての人に、ありがとう...
私は、まだメンフィスにいるの。
今夜、あのアン・ピーブルズが私と一緒に歌ってくれるのよ。
信じられない!!
嬉しくて、涙が止まらないの。”
CyndiLauperShineより転載
アラン・トゥーサン
(Allen Toussaint, 1938年1月14日 - )は、
米国ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれの
ピアニスト、歌手、ソングライター、プロデューサー。
自らの演奏活動の他に、特に1960年代から70年代にかけて
数多くのアーティストのプロデュース、作曲、編曲を手がけ
ニューオーリンズのR&Bシーンを影から支えてきた。
彼が関わったアーティストは、アーマ・トーマス、
リー・ドーシー、アーニー・ケイドー、ミーターズ、ラベル
ポール・サイモン、ザ・バンドなど、広範囲に渡る。
来歴
7歳のときにピアノを弾き始め、1952年フラミンゴスを結成。
このバンドにはギターにスヌークス・イーグリンが在籍していた。
1955年、デイヴ・バーソロミューの目に留まり
ファッツ・ドミノ、スマイリー・ルイスらのセッションに
参加するようになる。
これを機に、セッション・ピアニストとして名を上げていった。
そして1958年のリー・アレンのヒット"Walkin' With Mr. Lee"の
アレンジを担当してからは、編曲者としても評価を受けるようになる。
同年、初のソロ作「The Wild Sound of New Orleans」も発表している。
1960年、トゥーサンは
ミニット・レーベルにディレクターとして迎え入れられ
彼のプロデュース
作曲による数多くのヒット曲が世に送り出されるようになった。
その中にはジェシー・ヒルの"Ooh Poo Pah Doo"
ベニー・スペルマンの"Fortune Teller"
(ローリング・ストーンズのカバーでも有名)
アーマ・トーマスの"It's Raining"などがある。
当時彼は、自分の母親の旧姓である"Naomi Neville"の
ペンネームで曲を書いていた。
60年代トゥーサンは、インスタント、フューリーなどの
レーベルでも同様の活躍をし、ニューオーリンズのシーンに
大きな足跡を残した。
また1965年にはマーシャル・シホーンとサンス・レーベルを興している。
60年代は自らの作品よりも
他のアーティストのプロデューサーとして活躍したトゥーサンだが
70年代になると「From a Whisper to a Scream」(1970年)を始めとして
自己名義のアルバムを複数リリースした。
「Southern Nights」(1975年)は彼の代表作と言われている。
また70年代には
マーシャル・シホーンと共同でシーセイント・スタジオを開設した。
他にも、ドクター・ジョンの「In The Right Place」(1973年)や
アルバート・キングの「New Orleans Heat」(1978年)を
プロデュースしたり、ウイングスの「Venus And Mars」(1975年)に
ピアノで参加する等、幅広く活躍。
80年代以降は、目立った活動は少ないが
1996年にはナイノ(Nyno)レーベルを設立。
(レーベル名はニューヨークとニューオーリンズの頭文字を取ったものである)
同レーベルからは自身のアルバム「Connected」(1996年)をはじめ
オリバー・モーガン、レイモンド・マイルズなど
ニューオーリンズのアーティストたちがアルバムをリリースしている。
(但し、2007年現在、同レーベルは休眠状態である。)
また、1998年には、ロックンロールの殿堂入りを果たしている。
2005年、ハリケーン・カトリーナで被災し
ニューオーリンズ市内の彼の家もシーセイント・スタジオも
全壊してしまった。
彼は以後ニューヨークに拠点を構えていたが
2009年現在、ニューオーリンズに戻っていている。
カトリーナ以降、数々のカトリーナ関連のベネフィット・コンサート
CDなどに参加するようになった。
またエルヴィス・コステロとの共作
「The River In Reverse」(2006年)をリリース
中島美嘉のシングル"All Hands Together"にも参加するなど存在感を高めている。
2006年5月には、プロモーションのため久々に来日
東京のクラブでソロ・コンサートも行った。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載
チャーリー・マッスルホワイト
(Charlie Musselwhite 1944年1月31日 - ) は
アメリカ合衆国のブルース・ハーモニカ奏者、歌手。
白人でありながら
若い頃からメンフィス、シカゴで黒人のブルース・ミュージシャンと
共演を重ね1960年代に頭角を現した。
1944年1月31日、ミシシッピ州コジウスコに生まれる。
3歳の頃、家族とともにメンフィスに移り住みんだ。
13歳のとき、ハーモニカをプレイするようになり
ウィル・シェイド、ファーリー・ルイスなどメンフィスの
ブルース・シーンで活躍するミュージシャンと共演するようになった。
18歳になると、マッスルホワイトは職を求めてシカゴに移住した。
シカゴの地では、テレサズ・ラウンジ、ペッパーズ、ターナーズといった
サウスサイドのクラブに出入りするようになり
リトル・ウォルター、ロバート・ナイトホーク
サニー・ボーイ・ウィリアムソンII、キャリー・ベルなど
多くのミュージシャンと共演を重ねている。
1965年、ヴァンガード・レコードの
コンピレーションChicago/The Blues/Today!の
レコーディングにビッグ・ウォルター・ホートンの
バンドのメンバーとして参加した。
1967年には、ハーヴィー・マンデル、フレッド・ビロウらが参加した
初のリーダー作
Stand Back! Here Comes Charley Musselwhite's South Side Bandを
ヴァンガードよりリリースしている。
デビュー作がサンフランシスコの
アンダーグラウンド・ラジオで人気を博したことを受けて
マッスルホワイトはフィルモア劇場に出演するなど
サンフランシスコ周辺のベイエリアに活動の拠点を移した。
以後、アルコール中毒の問題を抱えていたこともあり
大々的なツアーは行わず
ブルー・ホライゾン、クリスタルクリアといった
主に小レーベルから作品のリリースを続けた。
1984年にブルー・ロケットからリリースした
Tell Me Where Have All the Good Times Gone?では
ギターにロベン・フォードを全面フィーチャーした。
同作では、前年に他界したマディ・ウォーターズを悼んだ
"Seemed Like the Whole World Was Crying"で
泣きのハープを披露するなど、マッスルホワイトの力量を示した
快作となっている。
1990年にアリゲーター・レコードからの1作目
Ace of Harpsをリリースした頃より
大々的なツアーを行うなど露出が増えるようになった。
1997年には大手ヴァージン・レコードよりRough Newsをリリース。
続いて同レーベルからリリースされたContinental Drifter(1999年)では
大胆にラテンの要素を取り入れる試みを披露している。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載
アン・ピーブルズ
(Ann Peebles, 1947年4月27日 - )は
アメリカ合衆国の女性歌手。
ブルージーなナンバーを得意とする、ディープ/サザン・ソウル・シンガー。
ミズーリ州セントルイス生まれ。
8歳から父親ペリー・ピーブルスの聖歌隊でゴスペルを歌っていた。
その後、オリヴァー・セインやビッグ・ラッキー・カーターなど
ブルース系の人と関わりがあったとインタビューに答えている。
21歳の時、ウィリー・ミッチェルのオーディションを受け
メンフィスのハイ・レコードと専属契約。1969年にレコード・デビュー。
1973年のヒット曲"I Can't Stand The Rain"は
アンの代表曲として知られ
ハンブル・パイ、ロン・ウッド、ティナ・ターナー等がカバーした。
同じハイ・レコードのシンガー兼ライターのドン・ブライアンとは夫婦。
1979年のアルバムを最後に突然引退してしまったが
復帰後の1988年に発売された
アルバム「Call Me」収録の"Didn't We Do It"は
素晴らしいバラードとなっている。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載
6月にリリース予定のニューアルバム
順調に仕上がっているみたいですね。
今回は、ブルースアルバムと言う事で
非常に楽しみですね。
待ちきれない人の為に
この映像で、イメージして下さい。
"The Big Apple To The Big Easy - The Concert For New Orleans"
2006年・ビッグアップル ビッグイージーにて シンディとアレントゥーサン
"Last Train/I Know"
"今度のアルバムは、メンフィスでレコーディングしたの。
それは、夢のような一時だった。
アラントゥーサン、チャーリーマッスルホワイトが此処にいる。
私は、この人たちを信じています。"
“サポートするすべての人に、ありがとう...
私は、まだメンフィスにいるの。
今夜、あのアン・ピーブルズが私と一緒に歌ってくれるのよ。
信じられない!!
嬉しくて、涙が止まらないの。”
CyndiLauperShineより転載
アラン・トゥーサン
(Allen Toussaint, 1938年1月14日 - )は、
米国ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれの
ピアニスト、歌手、ソングライター、プロデューサー。
自らの演奏活動の他に、特に1960年代から70年代にかけて
数多くのアーティストのプロデュース、作曲、編曲を手がけ
ニューオーリンズのR&Bシーンを影から支えてきた。
彼が関わったアーティストは、アーマ・トーマス、
リー・ドーシー、アーニー・ケイドー、ミーターズ、ラベル
ポール・サイモン、ザ・バンドなど、広範囲に渡る。
来歴
7歳のときにピアノを弾き始め、1952年フラミンゴスを結成。
このバンドにはギターにスヌークス・イーグリンが在籍していた。
1955年、デイヴ・バーソロミューの目に留まり
ファッツ・ドミノ、スマイリー・ルイスらのセッションに
参加するようになる。
これを機に、セッション・ピアニストとして名を上げていった。
そして1958年のリー・アレンのヒット"Walkin' With Mr. Lee"の
アレンジを担当してからは、編曲者としても評価を受けるようになる。
同年、初のソロ作「The Wild Sound of New Orleans」も発表している。
1960年、トゥーサンは
ミニット・レーベルにディレクターとして迎え入れられ
彼のプロデュース
作曲による数多くのヒット曲が世に送り出されるようになった。
その中にはジェシー・ヒルの"Ooh Poo Pah Doo"
ベニー・スペルマンの"Fortune Teller"
(ローリング・ストーンズのカバーでも有名)
アーマ・トーマスの"It's Raining"などがある。
当時彼は、自分の母親の旧姓である"Naomi Neville"の
ペンネームで曲を書いていた。
60年代トゥーサンは、インスタント、フューリーなどの
レーベルでも同様の活躍をし、ニューオーリンズのシーンに
大きな足跡を残した。
また1965年にはマーシャル・シホーンとサンス・レーベルを興している。
60年代は自らの作品よりも
他のアーティストのプロデューサーとして活躍したトゥーサンだが
70年代になると「From a Whisper to a Scream」(1970年)を始めとして
自己名義のアルバムを複数リリースした。
「Southern Nights」(1975年)は彼の代表作と言われている。
また70年代には
マーシャル・シホーンと共同でシーセイント・スタジオを開設した。
他にも、ドクター・ジョンの「In The Right Place」(1973年)や
アルバート・キングの「New Orleans Heat」(1978年)を
プロデュースしたり、ウイングスの「Venus And Mars」(1975年)に
ピアノで参加する等、幅広く活躍。
80年代以降は、目立った活動は少ないが
1996年にはナイノ(Nyno)レーベルを設立。
(レーベル名はニューヨークとニューオーリンズの頭文字を取ったものである)
同レーベルからは自身のアルバム「Connected」(1996年)をはじめ
オリバー・モーガン、レイモンド・マイルズなど
ニューオーリンズのアーティストたちがアルバムをリリースしている。
(但し、2007年現在、同レーベルは休眠状態である。)
また、1998年には、ロックンロールの殿堂入りを果たしている。
2005年、ハリケーン・カトリーナで被災し
ニューオーリンズ市内の彼の家もシーセイント・スタジオも
全壊してしまった。
彼は以後ニューヨークに拠点を構えていたが
2009年現在、ニューオーリンズに戻っていている。
カトリーナ以降、数々のカトリーナ関連のベネフィット・コンサート
CDなどに参加するようになった。
またエルヴィス・コステロとの共作
「The River In Reverse」(2006年)をリリース
中島美嘉のシングル"All Hands Together"にも参加するなど存在感を高めている。
2006年5月には、プロモーションのため久々に来日
東京のクラブでソロ・コンサートも行った。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載
チャーリー・マッスルホワイト
(Charlie Musselwhite 1944年1月31日 - ) は
アメリカ合衆国のブルース・ハーモニカ奏者、歌手。
白人でありながら
若い頃からメンフィス、シカゴで黒人のブルース・ミュージシャンと
共演を重ね1960年代に頭角を現した。
1944年1月31日、ミシシッピ州コジウスコに生まれる。
3歳の頃、家族とともにメンフィスに移り住みんだ。
13歳のとき、ハーモニカをプレイするようになり
ウィル・シェイド、ファーリー・ルイスなどメンフィスの
ブルース・シーンで活躍するミュージシャンと共演するようになった。
18歳になると、マッスルホワイトは職を求めてシカゴに移住した。
シカゴの地では、テレサズ・ラウンジ、ペッパーズ、ターナーズといった
サウスサイドのクラブに出入りするようになり
リトル・ウォルター、ロバート・ナイトホーク
サニー・ボーイ・ウィリアムソンII、キャリー・ベルなど
多くのミュージシャンと共演を重ねている。
1965年、ヴァンガード・レコードの
コンピレーションChicago/The Blues/Today!の
レコーディングにビッグ・ウォルター・ホートンの
バンドのメンバーとして参加した。
1967年には、ハーヴィー・マンデル、フレッド・ビロウらが参加した
初のリーダー作
Stand Back! Here Comes Charley Musselwhite's South Side Bandを
ヴァンガードよりリリースしている。
デビュー作がサンフランシスコの
アンダーグラウンド・ラジオで人気を博したことを受けて
マッスルホワイトはフィルモア劇場に出演するなど
サンフランシスコ周辺のベイエリアに活動の拠点を移した。
以後、アルコール中毒の問題を抱えていたこともあり
大々的なツアーは行わず
ブルー・ホライゾン、クリスタルクリアといった
主に小レーベルから作品のリリースを続けた。
1984年にブルー・ロケットからリリースした
Tell Me Where Have All the Good Times Gone?では
ギターにロベン・フォードを全面フィーチャーした。
同作では、前年に他界したマディ・ウォーターズを悼んだ
"Seemed Like the Whole World Was Crying"で
泣きのハープを披露するなど、マッスルホワイトの力量を示した
快作となっている。
1990年にアリゲーター・レコードからの1作目
Ace of Harpsをリリースした頃より
大々的なツアーを行うなど露出が増えるようになった。
1997年には大手ヴァージン・レコードよりRough Newsをリリース。
続いて同レーベルからリリースされたContinental Drifter(1999年)では
大胆にラテンの要素を取り入れる試みを披露している。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載
アン・ピーブルズ
(Ann Peebles, 1947年4月27日 - )は
アメリカ合衆国の女性歌手。
ブルージーなナンバーを得意とする、ディープ/サザン・ソウル・シンガー。
ミズーリ州セントルイス生まれ。
8歳から父親ペリー・ピーブルスの聖歌隊でゴスペルを歌っていた。
その後、オリヴァー・セインやビッグ・ラッキー・カーターなど
ブルース系の人と関わりがあったとインタビューに答えている。
21歳の時、ウィリー・ミッチェルのオーディションを受け
メンフィスのハイ・レコードと専属契約。1969年にレコード・デビュー。
1973年のヒット曲"I Can't Stand The Rain"は
アンの代表曲として知られ
ハンブル・パイ、ロン・ウッド、ティナ・ターナー等がカバーした。
同じハイ・レコードのシンガー兼ライターのドン・ブライアンとは夫婦。
1979年のアルバムを最後に突然引退してしまったが
復帰後の1988年に発売された
アルバム「Call Me」収録の"Didn't We Do It"は
素晴らしいバラードとなっている。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載
6月にリリース予定のニューアルバム
順調に仕上がっているみたいですね。
今回は、ブルースアルバムと言う事で
非常に楽しみですね。
待ちきれない人の為に
この映像で、イメージして下さい。
"The Big Apple To The Big Easy - The Concert For New Orleans"
2006年・ビッグアップル ビッグイージーにて シンディとアレントゥーサン
"Last Train/I Know"
2010年3月19日金曜日
速報!! シンディ・ローパー "Why Don't You Love Me?"に続くニューソング完成 "Eleven Days"
前回、2月23日にお伝えした記事
##アルバム"Here Lies Love”のコンセプトは
元ファーストレディ、
フィリピンのイメルダマルコスの人生に付いてです。
デービッドバーンとファットボーイスリムの間で協同において
製作されるアルバムです。
シンディは、このアルバムの中で二曲担当しています。
"Eleven Days" & "Why Don't You Love Me?"トーリ・エイモスと。
アルバム"Here Lies Love”は、
2010年3月29日の英国でと2010年4月6日の米国で
リリースされるものの予定です。##
2010年02月14日
私のブログにてお伝えした
デービッドバーン・ファットボーイスリム製作
イメルダマルコスの
コンセプトアルバム"Here Lies Love”
シンディは二曲担当しましたが
この度トーリ・エイモスとデュエットした
"Why Don't You Love Me?"が完成。
3月19日
そして、今回もうひとつの曲が完成。
今度はシンディソロで歌います。
"Eleven Days"
こちらから視聴できます。
First Listen: David Byrne & Fatboy Slim ft. Cyndi Lauper - "Eleven Days"
##アルバム"Here Lies Love”のコンセプトは
元ファーストレディ、
フィリピンのイメルダマルコスの人生に付いてです。
デービッドバーンとファットボーイスリムの間で協同において
製作されるアルバムです。
シンディは、このアルバムの中で二曲担当しています。
"Eleven Days" & "Why Don't You Love Me?"トーリ・エイモスと。
アルバム"Here Lies Love”は、
2010年3月29日の英国でと2010年4月6日の米国で
リリースされるものの予定です。##
2010年02月14日
私のブログにてお伝えした
デービッドバーン・ファットボーイスリム製作
イメルダマルコスの
コンセプトアルバム"Here Lies Love”
シンディは二曲担当しましたが
この度トーリ・エイモスとデュエットした
"Why Don't You Love Me?"が完成。
3月19日
そして、今回もうひとつの曲が完成。
今度はシンディソロで歌います。
"Eleven Days"
こちらから視聴できます。
First Listen: David Byrne & Fatboy Slim ft. Cyndi Lauper - "Eleven Days"
2010年3月18日木曜日
ディスコ・インフェルノ ザ・トランプス ティナ・ターナ シンディ・ローパー
フィリー・ソウルの中核を担うミュージシャン集団MSFBの中心メンバーである
アール・ヤングによって結成された、コーラス+インストゥルメンタル・グループ。
それがトランプスである。
その後のハウス・ビートにも繋がる、アールの均等かつ弾むようなリズムを軸に
フィリーお約束の華麗なストリングが施されたアレンジメントと
リード・ヴォーカリスト=ジミー・エリスの熱にうなされたようなテナー・ヴォイスが
ガッチリと組み合わさり、至極のダンス・ナンバーが形成される。
「トランプス・ディスコ・テーマ」、「ディスコ・インフェルノ」といった
ディスコ・ブームに目配せしたナンバーたちでも、底に流れるのは純度の高いフィリー・ソウル。
ある意味、70年代フィラデルフィア・サウンドを体現したグループだともいえる。
Listen Japanより転載
オリジナル
ディスコ・インフェルノ
The Trammps
最近のThe Trammps
私は、歳を取り爺さんになった時
ゲートボールする方じゃなく
The Trammpsのコンサートを楽しんでる
グループに入りたい。
素晴しい老後の楽しみ方だと思う。
ティナ・ターナー
(Tina Turner、1939年11月26日 - )
アフリカ系アメリカ人の女性歌手。
略歴
テネシー州出身。1960年代から1970年代にかけてはアイク&ティナ・ターナーとして活躍
1980年代に奇跡的な復活を遂げた。
旧姓名はアンナ・メイ・ブロック。
後に夫となるアイク・ターナーに見出され、1960年にアイク&ティナ・ターナーとしてデビュー。
野性的でパワフルな歌唱と激しいステージングで人気を博し、R&B界で多くのヒットを飛ばす。
1971年にはCCRのカバー曲「プラウド・メアリー」がポップチャートでも大ヒットする。
夫アイクの暴力や麻薬中毒が深刻になり離婚。
契約上の問題からアイク&ティナ・ターナー時代の曲を歌うことができず
1970年代後半は不遇をかこっていた。
しかし、この頃
イギリスのB.E.F(ブリティシュ・エレクトリック・ファンデーション)の
リーダーであるマーティン・ウェアより、カバー曲のゲストボーカルになることを
強く促され、グレン・グレゴリーと満を持してレコーディングした
Ball of confusion(That's what the world is today)
(テンプテーションズ)のカバーが
全英シングルチャートでスマッシュヒットし、再び脚光を浴びることになった。
1984年、アルバム『プライヴェート・ダンサー』から
シングルカットされた「愛の魔力(What's Love Got to Do with It?)」が
全米1位を記録。
グラミー賞最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀女性ポップボーカル賞に輝き
トップスターとして華麗なる復活を遂げた。
デヴィッド・ボウイとの「Tonight」、ブライアン・アダムスとの「It's Only Love」
エリック・クラプトンとの「Tearing Us Apart」といったデュエットでも話題になり
映画『マッドマックス/サンダードーム』の主題歌も大ヒット。
1990年代以降も安定した活躍を続けている。
1995年には、映画『007 ゴールデンアイ』の主題歌が
全英7位のヒットとなる。自伝映画に『ティナ』。
ウィキペディア(Wikipedia)より、転載
やっぱり、迫力ではティナが一番!!
この人には、チョットかなわないな。
そして、我らがシン様。
シン様、非常に気に入ったのか
1999/8/24Jellybean Records から
ディスコ・インフェルノのミニアルバムを出しています。
シンディ版
ディスコ・インフェルノ
貴重なライブ映像をどうぞ。
2010年3月12日金曜日
ご協力お願いいたします。
過去の、アルバム未収録音源・及びDVD化されていない作品の数々が
未だ倉庫に保存され誇り塗れになり眠っています。
どうかその貴重な作品を世に送り出すために
ご協力ください。
シンディ・ローパー未発売・再発売リリースキャンペーンサイト
日本語ローマ字表記になっています。http://www.cyndilauperuk.com/ReissuesPageJapanese.html
2010年3月10日水曜日
シンディ・ローパー クリストファー・メローニ主演 National Lampoon's Dirty Movie
ライザ・ミネリと。
クリストファー・メローニ
(Christopher Peter Meloni, 1961年4月2日 - ) は、
アメリカ合衆国の俳優。
代表作は、『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』(エリオット・ステイブラー)、
『OZ/オズ』(クリス・ケラー)など。
彼は俳優としての夢をかなえるために
建設作業員やバーテンダー、用心棒、
パーソナルトレーナーなどの仕事を重ねてきた。
CM出演やTVミニシリーズなどで確実に実力をつけてきた。
1996年のスリラー映画『バウンド』で
マフィアのドンの子ジョニーを演じて、
本格的なデビューを果たした。
また、この当時、『恐竜家族』で
ロバート・マーク・シンクレアの親友スパイクを演じ、
『プリティ・ブライド』では、ジュリア・ロバーツのフィアンセ役を演じた。
1998年から2003年まで、
『OZ/オズ』においてバイセクシャルのシリアルキラー、
クリス・ケラーを演じて注目を浴び、
ゲイ・コミュニティではセックスシンボルとしてもとらえられることがあった。
1999年、GLAADの夕食会で『OZ/オズ』でクリス・ケラーと
愛憎劇を繰り広げたトバイアス・ビーチャーを演じたリー・ターゲセンにふざけてキスをした。
『ロー&オーダー』の製作者
ディック・ウルフは彼の演技力に目をつけ、
1999年『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』に出演するきっかけを作った。
2001年の映画 w:Wet Hot American Summerでは
コミカルなキャラクタージーンを演じ、
2004年のコメディ映画 w:Harold & Kumar Go to White Castleでも
厚化粧キャラクター "Freakshow"を演じ、
続編w:Harold & Kumar Escape from Guantanamo Bayでも
"The Grand Wizard"としてカメオ出演。
Bravoの w:Celebrity Poker Showdownでは
8週連続で勝ち抜き、ロビン・タニー、メイシー・グレイ、
Joy Behar、アンディ・ディックとともに準決勝まで残った。
w:Feed the Childrenのためにも活動しており、
w:Celebrity Jeopardy!の2006年11月10日放送分で『LAW & ORDER』の
共演者 サム・ウォーターストンとキャスリン・アーブを負かした際、
賞金 $50,000をそれぞれBig Apple Circus Clown Care Programと
Montefiore Advocacy Centerに寄付した。
同年ピープルのセクシーな男性に選ばれ、
7月6日には『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』で、
第58回プライムタイム・エミー賞の主演男優賞 (ドラマ部門)ノミネートされた。
2009年7月、DCコミックのアニメ映画
w:Green Lantern: First Flightで主役のグリーンランタン(ハル・ジョーダン)の
声を当てることが決まった。
コメディ映画
“National Lampoon's Dirty Movie” クリストファー・メローニ主演の映画に
シンディがカメオ出演
シンディは前々から女優転向の噂が出ていた。
私は思うがもっとどんどん映画やドラマで活躍して欲しい。
今年は“ボーンズ”で女優としての活躍も見られる事でしょう。
0:21、息子に何か尋ねられるシーン0:28の顔にご注目!!
2010年3月6日土曜日
CYNDI'S TRIP TO MEMPHIS シンディ、メンフィスに行く
2010年3月2日火曜日
2010年3月1日月曜日
シンディ・ローパー プリンス ティーガン&サラ "When You Were Mine"
シンディの
"When You Were Mine" ホエン・ユー・ワー・マイン
この曲も、カバーで
オリジナルは、プリンス。
プリンス(Prince, 1958年6月7日 - )は、アフリカ系アメリカ人のポピュラー音楽のミュージシャン。本名、プリンス・ロジャーズ・ネルスン(Prince Rogers Nelson)。ミネソタ州ミネアポリス出身で現在に至るまで同地に在住している。1984年頃まで1961年生まれということにしていた。
1978年のファーストアルバム以降、ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ジャズ、ニュー・ウェイヴ、ヒップホップを自在に取り込んだ唯一無二のスタイルで音楽を創造しつづけ、第一線で活躍しながら多くの信奉者を生んでいる。ミネアポリスサウンドと呼ばれるムーヴメントの中心的存在。この先、何十枚でもアルバムを発表できるだけの楽曲のストックがあるといわれ、またどれほど優れた曲であろうともアルバムの流れから外れた曲は表に出さないという主義から、多大な数のブートレグを生んでいる。その特異な才能への敬意と Prince という名にちなみ、日本のファンは彼を「殿下」と呼ぶ。
ローリング・ストーン誌の2007年11月号の企画、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」に於いて第1位。
曲のタイトル・歌詞の特徴として、to は「2」、for は「4」、you は「U」、are は「R」など同音異字を用い、I (アイ) は「eye」の表象文字で記載されている。
イメージカラーは主に「紫」。これは「Purple Rain」発売前からであり、むしろこのタイトルがこのイメージに合わせたとも考えられる。
初期のころからセクシャルなイメージが強く、「I Wanna Be Your Lover」のミュージックビデオにビキニパンツにレッグウォーマーという衣装で出たり、アルバム「Lovesexy」のジャケット問題(下記)、さらには臀部が全開のパンツでパフォーマンスしたりと様々な逸話がある。またアルバム「Purple Rain」は収録曲「Darling Nikki」の露骨に卑猥な歌詞によりティッパー・ゴアによる「問題のある内容のレコード」に貼るウォーニング・ステッカーの第一号となった。しかし近年では、改宗を期に「古くからのファンも家庭を持つ年齢になったから」とセクシャル路線をやめることを宣言した(後はマドンナに任せるとも言っている)。ワーナーとの契約解消以降はアルバムの販売なども特殊な方法をとることが多く、日本での露出は同い年のマイケル・ジャクソンやマドンナと比較しても極端に少ない。
ウィキペディア(Wikipedia)より転載
1985年 シンディ・ローパー アメリカン・ミュージック・アワードより
今回新たに見つけた演者
"tegan and sara"
ティーガン&サラ・クインは、カナダ出身の、オルタナティヴ・フォーク・ロック・デュオ。1980年生まれの双子の姉妹で、2人ともレズビアンであることを公表している。
8歳からピアノを習い始め、15歳でプランクというパンク・バンドを結成。しかし、乱暴なオーディエンスによって機材を壊されてしまい、大きな音を出せなくなってしまった彼女たちは、否応なくフォーク・ロックに転向せざるを得なくなった、というエピソードを持つ。
プランクは早々に解散し、フォーク・ロック・デュオとして磨きをかけていった彼女たちは、1998年、カルガリーのバンド・コンテスト、ガレージ・ウォーズで、同コンテスト始まって以来の最高得票数を集めて優勝。一気にカナダのロック・シーンの注目を集めることとなった。
しばしばアーニー・ディフランコの名前も引き合いに出される、エッジの効いた彼女たちのアコースティック・ロックと、ライブ・ステージでのどぎついジョーク(2人で下痢についてライヴの中でディスカッションしたのは、もはや伝説化しているらしい)は大いに評判を呼び、サラ・マクラクランによる女性アーティストのみのライヴ・イヴェント、リリス・フェアにも、彼女たちは出演。さらに、カルガリー出身の大物アーティスト、ニール・ヤングのアーティスト・レーベル、Vapor Records との契約にも成功し、ついに2000年、弱冠20歳で彼女たちは1st アルバム『This Business Of Art』をリリースした。
2001年の7月には、フジ・ロック・フェスティヴァルに出演するために初来日。最終日の29日に、レッド・マーキー・ステージに登場した。そしてその年の11月には、日本でも『This Business Of Art』が、1年遅れでリリースされた。翌2002年には、2nd アルバム『If It Was You』をリリースしているが、日本での発売は見送られている。
クイアー・ミュージックより転載
2008年、True Colors Tourでシンディと競演している
シンディ、2008年ラジオシティーにて
When You Were Mineどれを聞いても
私は、良かったですが皆さんはいかがでしょうか?
ラジオシティー
曲の始めに、客席の誰かに諭すように話していますが
どうやら、酔っ払いに話しかけているようです。
「あんまり、騒いじゃダメよ!!いい子だから少し静かにしててね。坊や!!」
こんな事言っているんでしょうか?
昔なら、鉄拳制裁していたシン様も
今は、穏やかで優しい女神です。(笑)
次回、3月4日です。
お楽しみに!!
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