2014年3月30日日曜日

She’s So Unusual 30th Anniversary Tour Live 米PBStv Front And Centerにて5月17日(土)放送!!


米PBStv Front Row Center









同番組の特徴は、会場の最前列中央からの
撮影を多くする事で
視聴者がより一層ライブの雰囲気を
楽しめるようなライブ番組である。
現在(SEASON 3)を放送中
すでに収録され
放送予定の発表されているアーティストは



ラインナップ

Cyndi Lauper
The Goo Goo Dolls
James Blunt
The Avett Brothers
Ginger Baker
Christina Perri
Alt-J
Grouplove
Jon Batiste
Tom Odell
Here Come The Mummies

PBSのアナウンスによると反響があれば
番組のソフト化も検討するという。

番組は、昨年行われた
She’s So Unusual 30th Anniversary Tourより。
全編 55分とのことだが
シンディの母国 アメリカの番組
去年、一昨年のWOWOWのような
無茶な編集にはならないであろう。
なお、シンディ放送回は
米PBStv 5月17日土曜日
Episode #307 / 全編 55分の放送予定

毎度のことながら
残念ではあるが日本放送予定はなし。
米PBStv Front Row CenterのDVD化に
期待いたしましょう。






米PBStv 

Front And Center

Episode 307 CYNDI LAUPER. Photo Credit: Kat Villacorta





2014年3月27日木曜日

シンディ・ローパージャパン 特別企画  クイズに答えて輸入盤CD She's So Unusual: A 30th Anniversary Celebrationを当てよう!!

それでは、問題です。




アイアンマン、超人ハルク
スーパーマンにバットマン
近年マーベルコミック、DCコミックの
アメリカンスーパーヒーローが活躍する映画が世の中を賑わせていますが
このビデオでシンディが歌っている日本ではあまり馴染みのない
アメリカンスーパーヒロインドラマの
番組名を
下に表記している3つの中から1つ選んで
答えてください。

① ワンダーウーマン
② スーパーガール
③ エレクトラウーマン&ダイナガール

応募方法


下記の項目に必要事項及びクイズの答えを記入し
コピーしメールを作成
ココをクリックして送ってください。

★ 必要事項 貴方様の


〒:
住所:
名前:
クイズの答え:


抽選で1名様に
CD 輸入盤 
She's So Unusual: A 30th Anniversary Celebrationをプレゼントします。




締め切り
4月1日まで
尚、当選者の発表は賞品の発送をもって代えさせていただきます。
どちら様も、奮ってご応募ください。

2014年3月19日水曜日

シンディ自身が特典セットを紹介! Cyndi opens She’s So Unusual: A 30th Anniversary Celebration!


Cyndi opens She’s So Unusual: A 30th Anniversary Celebration!


シンディが
She’s So Unusual: A 30th Anniversary Celebration 特典セットを紹介しています。

投稿 by Cyndi Lauper.

2014年3月15日土曜日

講談社with1990年インタビューシンディ・ローパー№ 2



二十九歳のときだ。
音楽プロデューサーのデヴィッド・ウルフは
彼女の強烈な個性に惹かれ、売り出すために奔走した。
そして一九八三年十一月、シンディ・ローパーのデビューアルバム
「シーズ・ソー・アンユージュアル」が発売される。
日本語に訳すと”彼女、ふつうじゃないね”である。
このデビューが彼女の人生を一変させた。
第一弾シングル 「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハブ・ファン」
(女の子だって楽しみたい)は大ヒットを飛ばし、全米ヒットチャート一位に。
アルバムは全世界で八百万枚をセールス。
八四年度のグラミー賞最優秀新人賞も獲得した。

「おかしなものね。石まで投げられた私の格好が
いまではオシャレだっていわれるのよ。
だからね、自分が人と変わっているからといって
それを恐がっちゃいけないと思うの。」
シンディはやわらかな笑みを浮かべる。
三年前発表した『トゥルー・カラーズ』で、彼女は歌っている。

”私にはあなたの良さがよく判る/だからこそあなたを愛しているのよ
自分本来の姿を表に出すことを恐がっていちゃだめ/本物の輝きってとてもきれいなのよ
まるで虹の様に”(訳・中川五郎)

私生活のほうでも、彼女とデヴィットはいつも一緒だった。
ふたりは恋に落ち、同じ家で暮らし、八四年には婚約もした。
常に行動をともにしていた彼だったが.......。

「別れたの。
去年は私、なにもかもうまくいかなくてサイテイだった。
出演した映画「バイブス 秘宝の謎」はひどい出来だったし
歌った主題歌はあまり売れなかった。
新しいアルバムづくりも思い通りに進まなかったし。
私、ひらめきをなくした、ただのみにくいアヒルの子みたいだったの。
そんな年もあるのね.....」

* どうして、彼と別れることになったの?

「わからない。
突然すべてがちぐはぐになってバラバラになってしまったのよ。
『いったい、どうなってるの!』って叫んじゃったぐらいね。
彼とは、七年間つき合ったわ。
私たち、一緒にいまの成功を手にしたのよ。
私たちは一緒になるために生まれてきた。
協力し、支え合いながら生きるために。
だけど、なぜか毎日ケンカするようになって.....」

* 彼との結婚を考えたことは?

「もちろんあるわよ。
だから婚約までしたんだから。
でも四年も婚約しているなんてヘンよね。
彼に言ったの。
一九八八年の八月八日までに結婚しないのなら、もう止めようって。
......結婚できなかったのは、お互い忙しすぎたせいかな。
一緒に暮らしていたころ、仕事が終わって家に帰ると
彼はもう仕事の話をしたがらなかったの。
なのに私は仕事の話ばかりしていた。
私が悪いのよね。
二十四時間、仕事のことばかり話していて......」

五月に二年八か月ぶりに発売された最新アルバム
『ア・ナイト・トゥ・リメンバー』は、すべてラブソングが歌われている。
その中でシングルカットもされた
『マイ・ファースト・ナイト・ウィズアウト・ユー』
『あなたのいない初めての夜』は、彼女自身の作詞だ。
そこからはシンディの悲痛な叫びが聞こえる。
”馬鹿みたいにこんなところに座り込んで/いろんなことを思い出している。
二人でどんな風にしゃべりあっていたか/二人で一緒によく歌ったいくつもの歌
なんとかして過去を断ち切らなくっちゃ/でも思い出はあまりにも素晴らしすぎて
私は今にもおかしくなってしまいそう/あなたなしで過ごす初めての夜
あなたなしで過ごす最初の夜/いったいどうすればいいのかしら”(訳 中川五郎)




* 人生に男の人って、やっぱり必要?

「ええ。
でもね、男に頼ることで自分の幸せをつかもうというのは
とんでもないミステイクだと思う。
誰かの人生に乗ることが幸せなのか、自分自身でいることが幸せなのか。
私は、いつでも自分自身の道を歩んできた。
デヴィッドとの関係をスタートさせたのも私よ。
結果として別れてしまったけど
いまもいい友達。この関係のほうが私にはいいみたい」

* だけどそろそろ子供が欲しいと思わない?家族が欲しいなって。

「そうね。
子供は大好きよ。
でもいまは仕事があるし、デヴィッドと別れたばかりで
子供をつくる相手もいないし......
無理よね(笑)。
そのうち、この人の子供が欲しいという男の人が現れたら
ガンバルわ。」

* どんな男性が好みなのかしら?

「ユーモアのセンスがあってキュートで......
独身のほうがいいわね(笑)。心の大きな人ね。
私と一緒に肩を並べて歩くことを恐がらない人。
お互いの人生を分かち合える人」

* では逆に、魅力的な女性って、どんな人だと思いますか。

「誰でも、”it”があれば魅力的よ。
”it”ってね、自信と歓喜と情熱のある生き方のことよ。
プラス、やっぱりユーモアのセンスね。
あんまり深刻になりすぎずに軽やかに笑えるセンス。
それに、庶民的な感覚のある人なら
とっても魅力的だと思うわ。
私、典型的な美とか、昔から決まっているようなパターンは好きじゃないの。
私自身、完璧な美人じゃないから、パーフェクトにきれいな人を見ると
『わっ、完璧!』と驚くけど、それだけね。美人が魅力的だとはかぎらないでしょ」

いたずらっぽい顔で、にっこり笑ってみせた。
撮影とインタビューの時間は一時間半という予定だったのに
既に三時間を超えていた。
魅力的なページにするために、彼女は
洋服を三点着替えようと提案したのだ。
専属のスタイリストが用意した二十点以上の組み合わせのなかから自分で選び
さらにそのファッションに合うアクセサリーがホテルの部屋にあると思うと
わざわざスタイリストに取にいってもらう。
妥協はしない。
「去年の私が、仕事でどうして最低だったかというと
アルバムを作り直しながら私、気がついたのよ。
まわりの目をいつの間にか意識するようになっていた。
自分で楽しんでいなかった。私自身が楽しんでないのに
人を楽しませることなんてできないのよね」

シンディの笑顔は本当に楽しそうだった。

講談社 with 1990年インタビュー シンディ・ローパー



2014年3月9日日曜日

2014グラミー賞でシンディが着ていた アレキサンダーマックイーン ケープスタイルコート

2014グラミー賞でシンディが着ていた
アレキサンダーマックイーン ケープスタイルコートが
ロサンゼルス グラミー博物館に展示され公開されました。











http://grammymuseum.org

2014年3月2日日曜日

講談社with1990年インタビューシンディ・ローパー№1



大胆なファッション、奔放な言動
つねに自由で、愛らしい彼女の姿を見ると
今まで思い通りの道を歩んできたかのようだ。
だが、彼女は語る。
「今でも、何度もくじけそうになる。
そのために自分を励ましながら生きてるの。」
過去の痛み、失恋の苦しみ
しかし、それらをふんわりと包み込んで
強く前向きに生きる。
そんな大人の女の可愛さが
年齢を感じさせない彼女の秘密なのかもしれない。


撮影スタジオに入ってくるなり
彼女は気さくな弾けるような笑顔で
スタッフ全員に握手を求めた。
シンディ・ローパー。
ロック界のスーパースターの手は暖かく
そして意外なほど小さい。
この小さい手で、彼女はマイクを握り
世界中の人を熱狂させる。

「私はね、きれいで男の子にもてるというにはほど遠い女の子だったの。
どうやったら好きな人を振り向かせることができるのかも
わからなかった。
ただ、私は自分に正直に生きてきただけ。
自分の見たまま感じたままを言ってきた。
そのせいで失敗したこともたくさんあるのよ。
でも言わないで後悔するよりはいいと思う。
おとぎ話の「眠れる森の美女」は王子様がきて
キスしてくれるまで眠って待っていたでしょ?
私は寝て待ってなんていない。
起きて幸せを自分で探しに行く(笑)」

八九年九月 三年ぶりに来日したシンディが日本武道館をはじめ
全国十ヵ所でコンサートを開いたのは記憶に新しい。
「ゲンキ?」と片言の日本語で
ステージいっぱいに踊り回る彼女は
とてもキュートでセクシーだった。
カメラに向かってポーズを決めるいまも
彼女が三十六歳だなんて
とても信じられない。

本名 シンシア・ローパー。
一九五三年六月二十二日
ニューヨークの下町、ブルックリンの自宅から
隣町にある病院に向かう、タクシーの中で生まれた。
五歳のときに両親が離婚。
彼女は姉と弟とともに母親のもとで育った。
町工場が煙を吐き、貧しい白人労働者たちの住む街だった。

「当時はまだ離婚は珍し時代だったの。学校でよく言われたわ。
お前のお母さんは離婚したから地獄へ落ちるって。
ひどい話じゃない?
母は私たちを食べさせるために、ウェイトレスとして一生懸命働いていたのよ。
子供たちをとても愛していてくれたのよ。
なんでそんなこと言われなきゃいけないの?」

* 当時はどんな女の子だったのかしら?

「私は暴れん坊の猫のように反抗的だったの。
九歳のころから髪を染めたり、ずいぶんショッキングな
ファッションをしていた。
そのせいで私が誰かに電話しても、そこの親は取り次いでくれなかったのよ。
自分の子供に悪影響があると思ったんでしょうね。
赤と白の縞のハイソックスにぽっくりみたいな靴を履いて
緑色のダボダボの古着のコートを着て歩いていたら
石を投げられたこともあったんだから。
私の学生時代って、宿題もしないで詩や絵を描いたり
友達を校庭に集めて歌ったり踊ったり。
そんなことばかりだったわ」

* いわゆる、落ちこぼれだった?

「そう、落第ばかりして、自分は本当にバカなんだと思っていたわ。
リズム&ブルースが大好きだったけど
音楽では生活ができないって周囲から言われていたのね。
学校もいろいろ変わったのよ。でも、どこに行っても最低。
ファッションの専門学校に行けば
洋服を縫うあとから糸が抜けてきちゃうし
美術学校では、先生とウマがあわなかったし.....」

十七歳のとき、すべてに嫌気がさして家でした。
愛犬を連れスケッチブックと寝袋を抱えて
カナダやアメリカ北部を旅し、ヒッチハイクで町から町へと放浪した。
時には野宿をすることもあったという。

「あのとき、旅をして本当に良かったと思うわ。
旅をするってすばらしい事だと思う。傷ついている自分に勇気を与えてくれるもの。
二十代になってからも
そしていまでも、私は何度も何度もくじけそうになっている。
でもそのたびに私は自分の殻の中に閉じこもらないで
色々な所に旅するのよ。自分の外には様々な世界があって
どんどん変わり、動いているんだということを自分に見せるためにね。
『あなたがみじめな気持ちでいる限り、いくらまわりで素敵なことが起きても
それを楽しむことはできないのよ。そんなのソンじゃない?』って自分を励ますの」

放浪の旅からニューヨークへ帰ると、生活のためにさまざまな仕事をした。
ウェイトレス、絵のモデル、事務員
空手教室の勧誘員、競馬調教師の助手.....。

音楽の道を歩きはじめたのは一九七四年、二一歳の時だった。
ディスコ・バンドのバックシンガーからスタートし
二六歳のときに音楽仲間とロックバンドを結成。
しかし、そう簡単には売れなかった。

* 音楽を選んだのは、なぜ?

「私のなかに、叫びたいことがいっぱいあったのよ。
そのためには、やっぱり音楽が一番いいと思ったの。
バンドはうまくいかなくて解散したけど、私は歌い続けたわ。
ジャパニーズ・ピアノ・バーのウェイトレス兼専属歌手として歌っていたのよ。」

* 九月に来日した時に出演した(夜のヒットスタジオ」のご対面コーナーで
当時の日本バーの経営者、ミホさんと再会しましたね。

「私が売れなかったころ、ミホ・ママには、ずいぶんお世話になったの。
だから久しぶりに逢えたのが嬉しくて
私、泣いてしまった」



シンディの下積み時代は長い。
有名なプロデューサーに紹介されても、思っていることをそのまま言ってしまって
チャンスをぶちこわしたり、奇抜なファッションで
周りのひんしゅくを買ったり。
お金のない彼女は、ごみ袋に自分で絵を描いてドレスにしたこともある。
とにかく相変わらず”おかしな女”と見られていた。
「そんな私を発見して理解してくれる人がいなかったら、死んでたかもしれない。
私を見つけてくれた人、それがデヴィットだったの.....」

次回№2へ、つづく