大胆なファッション、奔放な言動
つねに自由で、愛らしい彼女の姿を見ると
今まで思い通りの道を歩んできたかのようだ。
だが、彼女は語る。
「今でも、何度もくじけそうになる。
そのために自分を励ましながら生きてるの。」
過去の痛み、失恋の苦しみ
しかし、それらをふんわりと包み込んで
強く前向きに生きる。
そんな大人の女の可愛さが
年齢を感じさせない彼女の秘密なのかもしれない。
撮影スタジオに入ってくるなり
彼女は気さくな弾けるような笑顔で
スタッフ全員に握手を求めた。
シンディ・ローパー。
ロック界のスーパースターの手は暖かく
そして意外なほど小さい。
この小さい手で、彼女はマイクを握り
世界中の人を熱狂させる。
「私はね、きれいで男の子にもてるというにはほど遠い女の子だったの。
どうやったら好きな人を振り向かせることができるのかも
わからなかった。
ただ、私は自分に正直に生きてきただけ。
自分の見たまま感じたままを言ってきた。
そのせいで失敗したこともたくさんあるのよ。
でも言わないで後悔するよりはいいと思う。
おとぎ話の「眠れる森の美女」は王子様がきて
キスしてくれるまで眠って待っていたでしょ?
私は寝て待ってなんていない。
起きて幸せを自分で探しに行く(笑)」
八九年九月 三年ぶりに来日したシンディが日本武道館をはじめ
全国十ヵ所でコンサートを開いたのは記憶に新しい。
「ゲンキ?」と片言の日本語で
ステージいっぱいに踊り回る彼女は
とてもキュートでセクシーだった。
カメラに向かってポーズを決めるいまも
彼女が三十六歳だなんて
とても信じられない。
本名 シンシア・ローパー。
一九五三年六月二十二日
ニューヨークの下町、ブルックリンの自宅から
隣町にある病院に向かう、タクシーの中で生まれた。
五歳のときに両親が離婚。
彼女は姉と弟とともに母親のもとで育った。
町工場が煙を吐き、貧しい白人労働者たちの住む街だった。
「当時はまだ離婚は珍し時代だったの。学校でよく言われたわ。
お前のお母さんは離婚したから地獄へ落ちるって。
ひどい話じゃない?
母は私たちを食べさせるために、ウェイトレスとして一生懸命働いていたのよ。
子供たちをとても愛していてくれたのよ。
なんでそんなこと言われなきゃいけないの?」
* 当時はどんな女の子だったのかしら?
「私は暴れん坊の猫のように反抗的だったの。
九歳のころから髪を染めたり、ずいぶんショッキングな
ファッションをしていた。
そのせいで私が誰かに電話しても、そこの親は取り次いでくれなかったのよ。
自分の子供に悪影響があると思ったんでしょうね。
赤と白の縞のハイソックスにぽっくりみたいな靴を履いて
緑色のダボダボの古着のコートを着て歩いていたら
石を投げられたこともあったんだから。
私の学生時代って、宿題もしないで詩や絵を描いたり
友達を校庭に集めて歌ったり踊ったり。
そんなことばかりだったわ」
* いわゆる、落ちこぼれだった?
「そう、落第ばかりして、自分は本当にバカなんだと思っていたわ。
リズム&ブルースが大好きだったけど
音楽では生活ができないって周囲から言われていたのね。
学校もいろいろ変わったのよ。でも、どこに行っても最低。
ファッションの専門学校に行けば
洋服を縫うあとから糸が抜けてきちゃうし
美術学校では、先生とウマがあわなかったし.....」
十七歳のとき、すべてに嫌気がさして家でした。
愛犬を連れスケッチブックと寝袋を抱えて
カナダやアメリカ北部を旅し、ヒッチハイクで町から町へと放浪した。
時には野宿をすることもあったという。
「あのとき、旅をして本当に良かったと思うわ。
旅をするってすばらしい事だと思う。傷ついている自分に勇気を与えてくれるもの。
二十代になってからも
そしていまでも、私は何度も何度もくじけそうになっている。
でもそのたびに私は自分の殻の中に閉じこもらないで
色々な所に旅するのよ。自分の外には様々な世界があって
どんどん変わり、動いているんだということを自分に見せるためにね。
『あなたがみじめな気持ちでいる限り、いくらまわりで素敵なことが起きても
それを楽しむことはできないのよ。そんなのソンじゃない?』って自分を励ますの」
放浪の旅からニューヨークへ帰ると、生活のためにさまざまな仕事をした。
ウェイトレス、絵のモデル、事務員
空手教室の勧誘員、競馬調教師の助手.....。
音楽の道を歩きはじめたのは一九七四年、二一歳の時だった。
ディスコ・バンドのバックシンガーからスタートし
二六歳のときに音楽仲間とロックバンドを結成。
しかし、そう簡単には売れなかった。
* 音楽を選んだのは、なぜ?
「私のなかに、叫びたいことがいっぱいあったのよ。
そのためには、やっぱり音楽が一番いいと思ったの。
バンドはうまくいかなくて解散したけど、私は歌い続けたわ。
ジャパニーズ・ピアノ・バーのウェイトレス兼専属歌手として歌っていたのよ。」
* 九月に来日した時に出演した(夜のヒットスタジオ」のご対面コーナーで
当時の日本バーの経営者、ミホさんと再会しましたね。
「私が売れなかったころ、ミホ・ママには、ずいぶんお世話になったの。
だから久しぶりに逢えたのが嬉しくて
私、泣いてしまった」
シンディの下積み時代は長い。
有名なプロデューサーに紹介されても、思っていることをそのまま言ってしまって
チャンスをぶちこわしたり、奇抜なファッションで
周りのひんしゅくを買ったり。
お金のない彼女は、ごみ袋に自分で絵を描いてドレスにしたこともある。
とにかく相変わらず”おかしな女”と見られていた。
「そんな私を発見して理解してくれる人がいなかったら、死んでたかもしれない。
私を見つけてくれた人、それがデヴィットだったの.....」
次回№2へ、つづく
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