2010年12月6日月曜日

シンディローパー インタビュー



「女の子だって楽しみたいのよ。」そう訴え続けてきた女の子シンディ。
年月は過ぎ 今、シンディ・ローパーからは、ブルースを感じる。

ぽってりしたキュートな顔のアイコンポップスターは、
アルバム“メンフィスブルース”を発表した。が
“彼女のDNAの中に、ブルースなど無い。”と
心無い一部の人からの非難中傷。

それに対して、シンディは強く反発する。

「ブルースは、常に私の中にあったわ。」
シンディは言う。
「ブルース、ジャズ、ロック、ポップ、ラップ
それらは基本的な要素です。そして自分なりに表現する。
それが私の仕事よ。
私は常にブルースアルバムをやりたかったの。
そして今、私はとても満足している。」
良くも悪くも、彼女のファン、評論家からも
いろいろな意見がある。



ブルースアルバム、
彼女にとってそれは、危険な冒険でもあった。
BBキング、 チャーリーミュッセルホワイト、
ジョニーラング、アラントゥーサン、
彼らは協力を惜しまなかった。
"Just Your Fool," "Romance in the Dark,"
"Rollin' and Tumblin' " "Mother Earth"
魂を込めて、彼女は全力で挑んだ。
それがシンディのスタイル。

シンシア・アン・ステファニー・ローパー
クイーンズ、オゾン公園で生まれ育ち
虫の声が、響く中
まだ十代だった彼女は、エラフィッツジェラルドや
ビリーホリデイを聴きながら
仲間の若者たちの前で唄っていた。
その後まもなく
彼女はアコースティックギターを覚え、作曲を始める。
いつしか、彼女の中で音楽に対する思いが大きくなります。
彼女は自分の将来が音楽に有ると思いました。
そして、夢を叶える為
ついに17歳の時に彼女は家を出ます。
しかしそれは、上手く行きませんでした。

その後、
彼女は本格的に歌い始めました。
歌い続ける毎日でした。
しかしその結果、妥協しない性格が災いし
喉を痛めてしまい彼女は声を失いました。
3人の医者は、彼女に二度と決して
歌ってはいけないと彼女に話しました。
しかし、今までの地道な活動や苦労を
真の勇気を持ったニューヨーカー
シンディは、無駄にはしませんでした。
その結果、彼女はスターになった。

女性アーティストで初めて
4作連続ビルボード シングルTOP10入りを果す
偉業を成し遂げた。

「私の喉は、まだ問題があるの」と、彼女は認める。
「 長時間しゃべると、しわがれ声になってくる。
『セレブ達の見習い』では、しゃべりすぎて声が
出なくなったの、でも、もう大丈夫。」




Big Apple to the Big Easy the concert

「カトリーナのコンサートで、アラン・トゥーサンと
初めて会って友達になった。それからの付き合い。
今回、私は尋ねたの。アルバム作るけど、協力してくれる?って。
彼は、協力してくれた。」

今"メンフィスブルース”イコール彼女。
でもシンディには、何か他の事も見え隠れしている。
彼女は、あっさり教えてくれた。
「それは、ブロードウェイのミュージカルよ。」
彼女は興奮気味に続ける。
「キンキーブーツ (Kinky Boots はイギリスのコメディ映画。)私が曲を提供
ミュージカルディレクター/振付家はハービファイアスティーン。」

今でも、彼女は一流のエンターティナーであり
アーティストでもある。

だが家に帰れば、
13歳になるの息子デクラン・ワレスくんのお母さんであり
デビット・ソーントンの妻である。

シンディは言う。

"私は、家の中で最高の席を持っているの。"

インタビュー記事
http://www.nydailynews.com/より

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